FAQのコーナー

by 梶井厚志

メールで寄せられた質問の中から選び、質問内容が明確になるよう編集いたしました。 解答はあくまで梶井厚志の個人的見解であって、京都大学の方針とはいっさい関係ありませんまた,多くの部分は私が筑波大学社会工学系に所属していたころ書かれました.

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経済学一般


質問: パレート最適について質問です。ある一枚のピザを4人で分けるとき、たまたま4人ともピザが嫌いであるとします。このとき、ピザを捨てしまうのはパレート最適といえるのでしょうか? 嫌いなものを食べさせられてしまうよりは、捨ててしまうほうが最適といえるかもしれません。しかし、一方でピザを誰かほかの人に分けて、その人々の経済状況を改善する方法が残されているので、パレート最適ではないとも私には思えます。どちらが正しいのでしょうか。

回答: 「パレート最適」の概念は、「あるグループ内の資源配分に無駄がない」と言う意味です。無駄がないとは,「グループ内の誰の満足を減らすことなしに、誰かの満足を高められる」ような資源の利用方法が他にないということです。ですから、パレート最適性は、あるグループに対して適応される概念です。言い換えると,ある事柄がパレート最適であるかどうかを、どのグループを考えているのかを明確にせずに考えても意味をなしません.「ピザを捨てる」のはピザを嫌いな4人の間ではおそらくパレート最適です。しかし、これを「その4人+大学の学生全体」というグループの間の問題としてみると,君の説明どおりおそらくは最適になっていません。


質問: さらにパレート最適について質問です。先ほどのピザの例について、 もう少し具体例を考えてみました.4人いて、ピザは1枚です。
1.ピザは皆好きだが、ある一人のメンバーがピザを独占する場合
2: 1人だけピザが嫌いで、ピザを好きなメンバーだけで分ける場合
3: ピザがみんな嫌いで4等分してみんなで分ける場合
4:  ピザはみんなが好きなとき、じゃんけんをし、勝った人2人がピザをすべて分け合う場合 
私は、1では、独占している人はみんなに分けるという方法があるので、パレート最適でない 2・3では、ピザが好き(嫌い)な人だけで分けているのでパレート最適 4では、じゃんけんで勝った人はほかの2人にわける方法があるので、 パレート最適ではないと思いますがいかがでしょうか。

回答: パレート最適性の基準は、どの人の満足を減らすことなしに、 誰かの効用を高められるかどうかをチェックすることです。 上の問題に関して、地道にこれをチェックしてみると:
1. パレート最適: 誰かの効用を増やすためには、「独占」している人のピザの消費量を減らさざるを得ないから。
2. パレート最適: 嫌いな人の効用は増やしようがないし、好きな人の間では誰かの消費量を増やせば, 誰かの消費量を減らす結果になるから
3. パレート最適ではない:もしピザを捨てることが出来るのならば、捨てることによって, 誰の不満もなしに全員の効用が上昇するので。
4. パレート最適: もし配分を変えて「他の2人」の効用を上昇させようとすれば、 じゃんけんに勝った人のピザ消費量を減らさざるを得ない
君の例からもわかるように、パレートの基準は「公平」であるとか「分配手続きの正しさ」は考慮に入れません.(例1と4参照)たとえば、私が世界中のすべての富と利権を所有する状態はパレート最適です。誰かに富を与えるということは、利己的な私の満足を減らすことに他ならないので.


質問:
“比較優位の原理”は,私にはなんとなく強者の論理に思えてしまうのですが,そんなことはないのでしょうか?たとえば,先生の著書『まんがで楽習 経済学』31ページの例で申しますと,最初に2人とも料理人だった場合で考えますと,
いくら,“比較優位の原理”に従って分業した結果,2人とも給料が以前よりも上昇するとしても,接客よりも料理人の方がより高給になるとすれば,どちらも料理人をやりたがるように思えるんです.“比較優位の原理”は,料理がより上手な料理人Aが,接客にまわる方の料理人Bを説得するためには,とても都合のよい理論であるように思えるのですが,逆から考えますと,Bにとっては,自分が料理人をやって,Aが接客をやる方が自分の給料はより高くなるので,“比較優位の原理”には合意しない,ということにはならないのでしょうか? 

同様に,たとえば「米国はOSとCPU,日本はパソコン本体の製造に特化せよ」とアメリカから言われたとしても,“比較優位の原理”から,これは正しいことになるのでしょうか?ですが,「パソコン製造では,OSとCPUに利益が集中するために,日本のメーカーは儲けが出ていない」といった報道を見ると,私には“比較優位の原理”は強者の論理であるようにも思えるのですが.そんなことはないのでしょうか?

回答:“比較優位の原理”は効率性に関する主張であって, 効率化によって発生した余剰が誰に受け取られるかまでは言及していません。 その余剰を一方的に享受させろ,というのは確かに強者の論理ですがこれは比較優位の責任ではありませんね。 経済学では,これは経済的交渉力を通じて決まると考えます(ミク戦第4章)

ご指摘の例では,現在の市場構造では, 生じた余剰がOSとCPUの生産者に流れているということにほかなりません。 「米国はOSとCPU,日本はパソコン本体の製造に特化せよ」といわれたら, 「いいけど,生まれた余剰は日本によこせ」とちゃんと交渉できる人々がいれば問題ないのですが,現実は…


質問: 比較優位の原理の興味深いところは、特化が自発的に行われて、しかもパレート 改善されるところにあるのではないでしょうか?特に、比較優位の議論の面白いところは、全ての産業において恐らく生産性が先進国より低い発展途上国も自由貿易に参加することによって、より高い効率を発揮できるところでしょう。したがって、むしろ弱者でも売るものがあり、得をできることを論証したことが画期的と思うのですがいかがですか?

また,特化は、基本的には自由貿易(もしく はより一般的には自由取引)の結果起こるのであるから、余剰の行き先が交渉で決ま るというのは違和感があるのですが。

回答: 鋭い指摘をありがとうございました.しかし,私は「特化が自発的に行われて」と言いきるには少し躊躇します.なぜ「自発的に」行われるか(あるいはそうなるべきか)と言うと,経済に参加するすべての人々がそうすることによって何がしかの余剰を受け取ることができるから,と言うことが前提になっていると思いますが,果たしてそうでしょうか.

たとえば,ある農業国が実は通信分野に比較優位があったとしましょう.比較優位の原則から行くと,その農業国は通信分野に特化して,農産物を輸入した方が,国として受け取る余剰は大きくなるはず.しかし,それを認めたとしても,仮にその余剰が通信業界に勤めている人だけに享受されるとしたらどうでしょう.この国は特化を自発的に行うでしょうか.

「特化が自発的に行われる」とする論理には,獲得された余剰がその国(一般には対象になっている団体)の構成員に「正しく自動的に」分配されるということが前提にされている,と考えるべきです.国レベルで考えると,「正しく自動的に」分配されるかどうかは,かなり疑わしいものではないでしょうか.少なくとも,比較優位の原則が主張する効率性の議論と,余剰の(自動的)分配の問題は分けて考えるべきだと私は考えます.

さらに,「余剰の行き先が交渉で決まる」ことに関する違和感についてですが,広い意味では市場取引も,交渉の一種ですよね.価格がどこに決まるかで,誰がどれだけ余剰を受け取るのかが決まる,と考えてみてはいかがでしょうか.


質問: これは、経済学を学び始めてからずっと疑問に思っていたことなのですが、そもそも価格メカニズムなど本当に現実の世界に適用できるものなのでしょうか。もちろん、一部の財の市場については何となく適用できるような気もするのですが、多くの市場に対しては、完全競争市場の仮定はあまりにも厳格すぎるため、どうも机上の空論のように感じられてしまうのです。

解答: これは難問です。まず市場という概念ですが、実際に「存在する」市場もありますが、経済理論で言う「市場」とは、一般には財・サービスが交換されることを抽象的に捉えたものです。いずれにせよ、現実の世界に、理論そのものの市場はありません。経済理論は、現実の経済を理解するための道具に過ぎません。仮定から導かれた結論を使って経済予測に役立てることはもちろん大切ですが、結論がどうも成り立っていないという現実があるとすれば、仮定のどこがおかしいのかを考えることによって、いっそう深い理解につながっていきます。完全競争市場の仮定が厳格であるとあなたが感じるならば、それによって理論の目的は、部分的にせよ達成されていると思いませんか。あなたが「一部の財の市場については何となく適用できるような気もするのですが、多くの市場に対しては、完全競争市場の仮定はあまりにも厳格すぎるため、どうも机上の空論のように感じられてしまうのです。」と理解できる背景には、理論を使って市場の分類をしているわけですよね。


質問: さて、例の自販機の値上げ問題の件ですが、とりあえず結果がでました。いろいろな文句も出ましたし、これからも出るでしょうが、来年の4月から値上げが実施されます。 ミクロ経済学的にいえば 「個人の消費者が価格に文句をいうことは意味がない」 というのは、本当なのでしょうか。私もそう思いますが、専門的なところだとどうなんでしょうか。

 

回答: 「文句を言う」と言う意味にもよりますが、物の値段が市場の需要と供給で決まると言う考え方は、裏を返すと、市場の規模よりもはるかに小さい個人の需要(文句)がどうあっても、物の値段にはそう影響はないと言う事になります。一方で、独占者は価格をコントロールできますね。これは彼の需要(または供給)がすなわち市場全体の需要となるからです。したがって、もし消費者が価格に影響力をもちたいと思えば、団結してあたかも独占者のように振る舞えるようにする必要があるでしょう。


質問: 倒産や破産は市場において、資源の再配分となるのですから、何が問題となるでしょうか。長銀の2つや3つが潰れてもいいのではありませんか。お金を貸さない銀行はそのうちに潰れることは自明ではありませんか。そんな連中に助ける道理はあるのでしょうか。昔は、電力会社が同じことを言っていたような気がします。

回答: これはそれほど自明ではありません。問題は金融機関は取引の仲介役になっていると言う点です。仮にA社がB社のために物を作るとき、お金は製品ができたときにはじめて、B社の方から支払われるわけですから、A社はとりあえず銀行からお金を借りつづけて製品を作るわけです。ところが、製品ができる前に銀行がなくなってしまったらどうでしょう。理論上は、A社はほかのより効率のよい銀行から借り直せばよいから、経済が健全に機能しているときには、銀行が一個つぶれてもA社には問題はないはずです。ところがいま自明でないのは、はじめにA社がお金を借りていた先の銀行がつぶれてしまったときに、本当にほかの銀行が見つかるかと言う事です。長い時間をかければ見つかるでしょうが、A社はちょっとでもお金が途切れれば製品を作る事ができなくなるから、何にも罪のないA社もあおりをくってつぶれてしまう可能性がある。そうするとA社の製品を当てにしていたB社はどうなるでしょう。などなど、影響はどこまで続くかわかりません。ですから、銀行が「健全に破綻する」ためには、その銀行が資金を供給していた先の安全を確かめる必要がある。ところが、現在はどの銀行もそろって資金の供給を押さえている。だから、ハイそうですかと長銀をつぶすわけにはいかないのです。


質問: 経済学の講義を聴いたり、経済学の本を読んでいて思ったのですが、ミクロ経済学の公理とか、分析の大前提といったものはいったい何なのでしょうか?物理学などの数理科学では、公理とか原則といったものから出発して学問を進めていっているのですが、経済学はどうもどんな仮定から出発しているのかがわかりにくいのです。もちろん、授業で合理性といったことが分析では仮定されているとは教わったのですが。

回答: 大前提という事になると、個人の行動の合理性、つまり自分のいる環境の中で、自分の視点から見てベストな行動をする、という事になりましょうか。物理学と決定的に違う点は、物理的現象ならば、少なくとも原理的には、実験観察を通して理論・前提が「正しい」かどうか確認できるのに、経済学の場合はそうはいかないというところです。したがって、そもそも「大前提」が「正しい」かどうか確認するすべがないのです。しかしながら経済学の対象とするものは、われわれの生活の中で重要なものである事は疑いないわけで、そのため正しいかどうかはっきりはわからない不安な前提を、経済学者それぞれが自分の信じるところによって立てて、議論しているわけです。


質問: マクロ経済学のところで習った日本のGDP等は実際の生活にどう結びついてくるのでしょうか?実感として湧きません。実際に大事なのは、全体の統計ではなくて、各個人の生活を反映した部分部分の統計であるような気がす るのですが、全体の統計をとる意味はどこらへんにあるのでしょうか?

 

回答: 個人の実感と全体の統計にずれがあることはよく指摘されますが、これは当然のことです。マクロ統計は全体の損得の合計ですから、実際に経済学的価値をより多く創造したひとが少なくても、その金額が大きければGDPを押し上げるでしょう。

例えば、阪神タイガースの活躍で、甲子園球場周辺の商店街は売り上げが倍増していますから、最終的にはGDPを押し上げるでしょう。これでGDPが増えたとしても、つくばにすむ野球に関心のない人にとって、実感がないのは当然です。しかし、阪神ファンも国民の一部ですから、彼らが「実感している」事も、国全体の経済という視点からは評価してあげる必要があるでしょう。

言い換えると、個々の「ミクロ的実感」とマクロ統計とに差があるからこそ、マクロ的視点が欠かせないのです。


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ミクロ経済学


質問:@洋服と食品の二つの物があった場合、消費者はどういう買い方をするか(消費者は収入の全額を両方に使うことが前提)。Aしかも、もし食品組合に加盟したら(加盟料を支払う)、割引価格が提供されるとした場合、どうなるのかを考えて見ます

@は、予算線と無差別曲線を書いて、この接点が消費者を最も満足させるという、ごく普通の話だと思います。問題はAなんですが、まず考えたことは、B加盟料の支払によって消費者の購買力が落ちるので、予算線が左下にシフトする(real income effect)。Cそして、次に、割引価格で食品を買える→食品をたくさん買える、ということで、予算線の傾きが変わる(substitution effect)。と、ここまでは、一般的な本にもある話かと思います。この場合、洋服の買う数量が減ります。

ここで、私が悩んでいるのは、割引価格で食品を買えるということは、消費者の購買力が上昇するということにもなるので、予算線が再び右上にシフトするのではないか?そうすると、単純にBとCが起るのではなくて、予算線はBで考えたほど左下にはシフトしないのではないかということです。すなわち、加盟量と割引価格の両方の効果をネットして考えるべきではないのでしょうか.

回答: 「購買力が上昇する」とは,要するに予算内で買える物が増えると言うことだから,数学的に言うと「予算集合」(つまり買える物の組み合わせをすべて集めたもの)が大きくなることをさしますね.予算集合が大きくなる原因は,大雑把にいえば所得上昇(予算線が平行移動する)のと価格低下〔予算線が回転する)の二通りがあるわけです.例に則して言えば,価格が低下することで予算線が動き,購買力はすでに上昇しているわけです.その上に購買力を上昇させるために再び右上にシフトすると考えたところが混乱していますね.(こういう問題を考えるときには,とりあえず予算線を書いてみるのがコツです)


質問:

個人的需要曲線を集計して、社会需要曲線を導出するときには必然的に効用の個人間比較を行っているのではないでしょうか?なぜなら,各人の「通常の需要曲線」は個人間比較ができないという序数効用から演繹することが可能ですね.それを足し合わせることは、各需要曲線を一緒のレヴェルで考えているということから、結果的には効用の個人間比較を行っていることになるのではないでしょうか.

回答: うーん,微妙な問題ですね.たとえばこのように問題を言い換えてもよいでしょうか.もし社会的な需要曲線が個人の需要曲線のようなものであれば,すなわち仮想的な個人を考えると,その個人(社会?)の効用の最大化の結果として社会的な需要曲線が解釈可能であれば,その代表的個人の効用を各個人の効用から生成する際に,何らかの個人間比較をしていることになるのではないのか.

それが何らかの個人間比較に対応するかどうかはまた微妙な問題ですが,前半の「需要曲線が個人の需要曲線のようなものであれば」というところは一般には成り立ちません.社会的な需要曲線が効用最大化の結果としては導き得ない例は実はいくらでもあるのです.エッジワース・ボックスで競争均衡が3つある例は作れますね.その例での総需要曲線は,効用最大化の結果としては書き表せません.なぜなら,個人の需要関数には均衡点は一つしかないからです.このあたり,例えばMas-Colell, Whinston, Green の本に詳しい議論がのっています.

一方で,すべての個人の貨幣の限界効用が一定のときは成り立ちます.言い換えると,すべての個人の貨幣の限界効用が一定のときは上の意味での効用比較が可能なわけです.しかしながら,これは驚くには値しません.なぜなら,すべての個人の貨幣の限界効用が一定という前提のもとでは,そもそも効用は貨幣の水準で置き換えることができるので,当然その貨幣の水準を使って比較が可能だからです


質問: 「競争企業は、もし市場価格で売れば、売りたいだけの数量を売ることができる(ような需要曲線に直面する)」 ということですが、この考え方には理論的にも現実的にもおかしいように思います. なぜなら個別の企業が、価格P*において自分が獲得できる需要量が分かっていないか, あるいはわかっていながら売りたいだけの数量を売ろうとするという妙な行動をとることを前提としているからです.

回答:「市場価格で売れば、売りたいだけの数量を売ることができると考える」ということが完全競争というモデルの仮説です.ついでに言えば,完全競争モデルでは,企業は現在の「相場」の元では,売ろうとしただけの需要があると信じて行動すると言うことです.完全競争モデルの問題意識の一つは,個々の企業が全体の需給のことはまったく考えなくても,市場全体でバランスがとれるのだろうか,ということです.よって,「市場価格で売れば、売りたいだけの数量を売ることができると考える」ような,極端に自己中心的な企業を前提としても,市場がバランスし,効率性が保たれる,というのがミソだと思います. 
さて,この「仮説」が妥当かどうか,は実際にどのような分析に使われるか,ということによります.ただし,忘れてはならないのは,経済理論は現実の抽象化だということです.現実は複雑すぎるので,あえて,現実とは違っていると知っていながら,大雑把な仮説をおいて,簡単化して考えるものです.現実にあわせて理論を複雑にしていけばよい,という性質のものではありません.例えば,ある特定の人がそうは動かない,私はそうは考えない,という感覚から,単純な分析に役立つ仮説を捨ててしまうとすれば,それは本末転倒といえましょう.


質問:ミクロ経済学の,純粋交換経済における“エッジワース・ボックス”の“契約曲線”についての質問です.契約曲線がエッジワース・ボックスの枠線上にまで達すると,契約曲線はそのままエッジワース・ボックスの枠線に沿って原点まで描かれるようですが,これはなぜなのでしょうか?エッジワース・ボックスの枠内においては,一般的な教科書(=たとえば,『ミクロ経済学 増補版 武隈愼一著 新世社』152〜153ページ)に載っているように,2つの無差別曲線が接する(=2個人の限界代替率が等しい)ところがパレート最適点ですが,契約曲線がエッジワース・ボックスの枠線上にまで達したところから原点までにおいては,2つの無差別曲線が接していなくても(=2個人の限界代替率が異なっても),ここもパレート最適なのですか?

回答:エッジワースボックスの内点では,限界代替率が等しいことが効率性の条件ですが,枠線上ではそうとは限りません.

例えば,第1個人の第2財の消費量が0であるようなところを考えましょう.このとき,仮に限界代替率に差があり,第1個人の方が相対的に第1財の方をより好んでいるとしましょう。

通常の議論は,それならば,第1個人の第2財の消費量を減らして第2個人に与え,見返りに第1個人に第1財を与えれば,両者ともに得になる取引になってしまうので,もともとの点は最適ではなかった,したがって限界代替率が等しくなければならない,と言うものです.

しかし,第1個人の第2財の消費量が0であれば,上の議論は成り立ちません.なぜなら,第1個人の第2財の消費量はすでに0で,それ以上に第2個人には第2財を与えられないからで,「上記の両者ともに得になる取引」は実行不可能だからです.

例えば,限界代替率云々にかかわらず,第1個人のすべての財の消費量が0になるのはパレート最適です.第1個人の効用を上げるためには,第2個人の財を奪い取らなければならないからです.第一個人にとっては不愉快ですが,パレート最適性の条件を満たします.このことから,パレート「最適」と言うのは誤解を招き易い表現で,パレート「効率」(=無駄がない) と言った方がよいでしょう.


質問:長期市場均衡状況にある産業(例えば自動車)の各企業に、生産量や販売量にかかわらず一律に1億円という税金をかけたとしたら、これは、自動車市場の供給曲線を上昇させる要因となるか?私の考えは、この税金は企業から見ると固定費用であり,一方,市場の供給曲線は、企業のマージナルコスト曲線の総和に等しいため,導入後の最初の自動車生産からアベレッジコストだけが上昇するだけで,市場の短期供給曲線は動かない。ただし,この結果,短期経済利潤が負になる企業もあるため,長期的には、コストダウンをする企業、販売価格の引上げに努力する企業が現れる一方、こうした努力に限界を感じた企業が市場から撤退するため、長期供給曲線は左にシフトし、市場価格が上昇する,と言うものなのですが,果たして、本当に、マージナルコストは動かないと考えていいのでしょうか?例えば、税金導入後の最初の年の最初の生産時にはマージナルコストが上昇すると
も考えられるような気がするのですが。。。


回答:上記の標準的な議論では,限界費用曲線は税の導入に対して中立と言う前提があります.またおっしゃる通り,これを中立ではないとする議論も当然可能だと思います.例えば,税が引き金になって,各社とも生産ラインの見直しをしたり,技術開発に乗り出したり,というシナリオもあり得るでしょう.ただし,限界費用曲線は税の導入に対して中立でも,均衡における限界費用(=価格)は変化していることに注意してください.


質問:“産業の長期均衡”についての質問です。『ミクロ経済学入門第2版 西村和雄著 岩波書店』172ページ〜173ページによると、「すべての企業が同質的であると仮定して、超過利潤が発生している時は、超過利潤がゼロになるまで参入が続いて、市場短期供給曲線が右方シフトし、逆に損失が発生している時は、損失がゼロになるまで退出が続いて、市場短期供給曲線が左方シフトし、 結局、P= LMC= SMC= LAC= SACとなる点に落ち着く」ということですが、退出において、なぜ、すべての企業を同質的であると仮定しているのに、退出する企業と残る企業に分かれるのでしょうか?もしかして、本来はゲームの理論などで考えるようなことなのでしょうか?

 

回答:この場合、「同質」とは技術などの同質性を意味し、結果が同じになることを意味するのではありません。ですから、退出する企業と残る企業に分かれても、「同質」性とは何ら矛盾しません。

たとえば、こんなのはどうでしょう。いま「同質な」男性10人が女性5人を結婚相手に選ぶとき、理論が予想するのは5人の男性が結婚できるだろうということで、どの5人が結婚できるかはわかりません。もし、どの男性が結婚できるのかという問題を考えたいのならば、そもそも「同質な」男性を想定したことがナンセンスになります。言い換えると,そもそも「同質な」男性を仮定した瞬間に[誰が]という問題は捨象されているのです。

この質問の例に限らず、経済分析で[同質な]主体が仮定されることが良くありますが,それによってある種の問題は捨象されてしまいますから、(本来は)分析の目的にそって吟味されなければならないものなのです。



質問: 利潤最大化要素需要量(L*、K*)では、追加的生産を、労働単独の追加で行っても、資本単独で行っても、  限界費用は同じになる、 とは、具体的にはどういうことなのでしょうか?

回答:同じでないと,利潤が最大になっていないはずですね。限界費用が同じでなければ,割安な方の投入を増やして割高な方を減らせば、コストの削減になるから儲けが増えるはずです。要するに,利潤を最大にしている企業が,わざわざコスト高のものを使っているはずはないということです。『限界生産物MPL=Δx/ΔLの価値が…』などと,教科書で赤文字で記されているところだけ,やみくもに暗記してはいけません.


質問: 生産要素需要曲線は、なぜ常に右下がりなのでしょうか?消費者理論のギッフェン財のように、価格効果(代替効果+所得効果)的に考えれば、生産要素需要曲線も、ギッフェン財のように、右上がりになる場合もあるとは考えられないのでしょうか?

 

回答: 生産者理論では「所得」に対応するものがないことに注意してください.「代替(価格)効果」だけならば需要曲線は右下がりですね.

さらに付け加えると,「所得」に対応するものとして,資金制約(つまり,生産を開始するときに,投入できる投入物の総量に制約がある)を考えれば,消費者理論とまったく同様に議論出来ます.


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「ミクロ経済学:戦略的アプローチ」


まずは誤植をチェック (随時更新) 


質問: 「ミク戦」の練習問題5.3の後半で, 「両方とも資格をとる混在型均衡と,両方とも資格をとらない混在型均衡が存在するか調べよ」と出題なさっていますが,前者の「両方とる」が存在しないのはわかりました。しかし,後者の「両方とも資格をとらない混在型均衡」は,存在すると考えてよろしいのでしょうか?

私が考えた均衡は,以下のとおりです。
(1) 能力高,低ともに資格をとらない。
(2) 企業の戦略と信念は以下のとおり。
・資格のある人にもない人にも高給を払う。
・信念は,資格のある人の情報集合では「高い」に1,「低い」に0,
ない人に関しては「高い」「低い」に0.5ずつ。
(「資格のない人に低給で」は,能力高の人の「資格をとらない」が
最適にならない。)

これでよろしいのでしょうか?もしこれが均衡であると, 「能力の低い人にとってだけ難しくする」でもうまくいかないことになりませんか?それとも, 私の均衡の考え方がおかしいのでしょうか?

回答: ご指摘の戦略の組は均衡であると思います.ただし,発生する経済学的価値を考えれば,これは「うまくいっている」なのです.なぜかというと,教科書で分析した状況で、経済の総余剰を考えて見ると,総余剰が減少するのは

1.能力の高い人が働かない(=企業が能力の低い人に低給を提示する)
2. 能力の低い人が資格をとる

の2つの場合だけです.それ以外のケースは,単に発生した経済学的余剰をプレーヤーの間で分け合う方法が異なるだけです.ご指摘の均衡では,上のいずれも起こっていませんから,経済学的余剰のロスはないはずです.したがって,ご指摘の均衡も「無駄のない」という意味で,好ましいわけです.

実際,均衡での利得を計算して見ると

企業=0.5 (2または-1),能力高=4,能力低=4,合計 0.5+(1/2)(4+4)=4.5

で、図5.8の分離型のときは

企業=2,能力高=4,能力低=1,合計 2+(1/2)(4+1)= 4.5

となり,同じになっています.


質問: 図5.4のチキンゲームに関しての質問です。9行目から10行目に掛けて、 第一プレーヤーが家事をして、第二プレーヤーが第一プレーヤーが「家事やる」と信じて 「やらない」のはベイズ完全均衡です。と書いていますが、第一プレーヤーも第二プレーヤーが 「やらない」という戦略をとると信じているからこそ、「家事やる」という戦略をとっているように思えます。 なぜなら第一プレーヤーは第二プレーヤーが「やらない」 という戦略をとるということは分らないと考えるからです。 つまり、相手の戦略を仮定して行動しているのでしょうか? またこの事は第五章のゲームすべてのプレーヤーについてにいえることなのでしょうか?

回答: 一般に,おっしゃるように戦略だけを考えればナッシュ均衡を考えることには問題が生じないのですが, 妙なナッシュ均衡が生じてしまう可能性があります.そこで妙なナッシュ均衡を排除し, 意味のある分析をするために「信念」と言う概念を使う必要が生じます. 図5.4にかんしてはおっしゃる通り「信念」など考えず,戦略に反応していると考えてもかまいません. 言い換えれば,図5.4は戦略形表現ですべて話しが済んでいるゲームなのです. しかし,すべてのゲームに関して「信念」をわざわざ考える意義が無いとわけではありません. そのあとの資格取得のゲーム,あるいは練習問題5.4を考えてみましょう. 資格取得のゲームでは「信念」を考えないと,「自然」の行動がうまく反映されません. 練習問題5.4では「信念」を考えないと妙な均衡を排除出来ません


質問 : 『ミクロ経済学 戦略的アプローチ』173ページ図9.1の需要曲線によると,ここで、価格が3ドルだったときにMr.ビールが需要するビール4杯というのは、一気に4杯飲むという意味なのでしょうか?それとも、1杯ずつ飲んでいって合計で4杯飲むという意味なのでしょうか?

というのも,この需要曲線を効用最大化問題まで遡って考えますと、私には一気に4杯飲むという意味に思えます。つまり、店員が「ご注文は何になさいますか?」と聞いてきたら、Mr.ビールは「ビール4つ」と答えるように思えます。なぜなら、効用最大化量が4杯ということは、なんとなく4杯同時に飲むように思えるからです。しかし他方で、この需要曲線を逆需要曲線として考えますと、私には1杯ずつ飲んでって合計で4杯飲むという意味に思えます。つまり、店員が「ご注文は何になさいますか?」と聞いてきたら、Mr.ビールは「とりあえずビール1つ」と答え、それを飲み干してから追加注文していって合計で4杯飲むという意味に思えます。なぜなら、逆需要関数は、たとえば4杯目に関していえば、4杯目の限界便益は3ドルというように、1杯目からの連性が強調されているように思えるからです。 
このように考えますと、前者と後者で違いが出てきてしまい、私にはどのように考えればいいのか分からなくなってしまうのですが、これはどのように考えればよいのでしょうか?つまり、Mr.ビールは「ビール4つ」と答えるのでしょうか?それともMr.ビールは「とりあえずビール1つ(追加注文で合計4杯)」と答えると考えるのでしょうか?

回答: 

静学的なモデルでは,その構造上,1ずつ注文するのと4杯一度に注文するのを区別しえません.通常は,4杯一度に飲むと解釈します.このとき「追加的1つの効用」がそれまでにどのような手順で飲んでいるかに依存せず定義されるためには,貨幣の限界効用が一定でなければなりません.ミク戦にある議論を参照してください。

一方,時間軸を具体的に考えて,1ずつ注文するのと4杯一度に注文するのを区別したいのならば,動学的な意思決定モデルを考える必要があります.これはミク戦では具体的には取り上げていませんが,もし貨幣の限界効用が一定であるという仮定があれば,1ずつ注文するのと4杯一度に注文するも同じ効用レベルであることが確認できます.ですからMr.ビールはどちらでもよいと考えるでしょう.


質問: P.210第一行目で、「分散投資にとって最悪の場合は、両社の業績が完全に連動しているとき」との記述がありますが、現実社会においてはVarian(Intermediate Economics:p225)が指摘しているように関連業種の業績は連動すると考えられるのではないでしょうか? 特に、現在の日本のように不景気な状況にある場合、例え分散投資をし たとしても、リスクを減らすことができないと言えると思うのですが。。。よって、「両社の業績が独立に決まる」という仮定は現実問題として、不適合になってしまうのではないでしょうか?この仮定が成立しないとすると,リスクが分散投資によって軽減されることを,期待効用を比較すること(期待効用を利用して Risk Averse/Lovingな個人の選択から分散投資の有利さを説明すること)はできないのではないでしょうか.


回答: 両者の業績が独立に決まらなくても,業績が「完全に連動」していなければ分散投資の効果はあります.ここで「完全に連動」とは,A社の株価が1%上昇するときには「かならず」B社の株も「ちょうど」1%上昇するという意味です.したがって「関連業種の業績は連動」したとしても,それが「完全に連動」していない限りは分散投資の効果はあります.

ミク戦の例を少し変形した次の例を考えて見ましょう.

AとBの株価は100あるいは400.
その決まり方は,まず神様がコインをなげ,表が出ればAの株価は400裏ならば100.そのあとで神様はさいころをふり,1が出ない限りBの株価はAと同じとし,1がでたらBの株価はAと逆(A=400ならばB=100,A=100ならばB=400)になる.

こうすると,
A=400でB=400 確率 5/12 (=1/2 * 5/6) 
A=400でB=100 確率 1/12 (=1/2 * 1/6)
A=100でB=400 確率 1/12 (=1/2 * 1/6)
A=100かつB=100 確率 5/12 (=1/2 * 5/6)

となりますね.ですから

‐ AもBも100あるいは400に確率1/2でなる (したがって,株価の期待値はこの場合も250)
‐ 確率5/6で両者の業績は連動 (したがって,業績はかなりの確率で連動)

このときでも,A社の株にすべて投資するよりは,AとBに1/2ずつにしたほうが勝ります.なぜならAとBに1/2ずつにしておけばポートフォリオの価値は

確率5/12 で 400  (A=400でB=400) 
確率2/12 で 250 (A=400でB=100 または A=100でB=400)
確率5/12 で 100 (A=100かつB=100 )

となりますので

1/2*u(400)+1/2*u(100) = 5/12 * u(400) + 2/12 * [1/2 *u(400)+1/2 *u(100)] + 5/12 *u(100)

に注意して教科書212ページと同じように変形すれば1/2ずつにしておいたほうをRisk Averseな人は好む事がわかります.

さらに深く理解するために,練習問題11.2を解いてみましょう.

とはいえ,分散投資をする場合,業績が逆に連動するものを組み合わせた方がより効果は上がります. 上記の例と教科書の例で1/2ずつのポートフォリオの効用を比較して見てください. そのため,通常リスク分散型(バランス型)投資信託と呼ばれるものは, 特定の業種に集中せず,また国内株式だけでなく内外の債券や外国株式にも投資しています.


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マクロ経済学


質問:所得再分配政策を考えますと、社会的な価値判断として、個人の間で効用を比較せざるを得ないのではないでしょうか?所得を再分配した結果を社会的に判断しなければならないわけですが,このためにはその社会に属する個人の好みを何らかの共通の基準に照らして比較しなければならない.とすると、これは対象になっている個人の満足度が,ある共通な基数効用で表されていることを要請しはしませんか.

回答:所得再分配の是非を議論するときには,たしかに何らかの比較を異なる個人の間でせざるをえません.しかしながら,比較=『序数的効用』となるかどうかに関しては意見のわかれるところだと思います.これは大変深くてコクのある問題ですね.誤解を恐れず非常に大雑把に言うと,それを序数的な情報だけで一般的なルールとしてできるか,という問題を考えたのがArrowで,こたえはNOであろう,というのが「アローの不可能性定理」とよばれる結果の含意です.


質問: ケインズ理論の45度分析(財市場)では、なぜ常に“総供給Ys=国民所得Y(45度線)”となるのでしょうか?特に、超過供給が生じている時に、なぜ“総供給Ys=国民所得Y”になるのかがわかりません。超過供給が生じているのですから、総供給したうちの一部は売れ残っているのですよね?そういたしますと、総供給と同じだけの国民所得は生じないように思えるのですが、これはどのように考えればよいのでしょうか?

回答: ここでは,「超過供給が生じないように,総供給Ys=国民所得Yとなるようなレベルで国民所得が決まる」,と読むのが正しいと思います.市場理論では,価格の調整機能があるので,総供給量がYsで与えられていれば(すなわちYsのところで垂直になる供給曲線),適当に価格が調整されれば,需給が均衡すると考えます.ところが,ケインズ理論の第1の柱は,価格の調整機能を否定(あるいは,不完全と)することで,勝手に与えられたYsに対して需要が等しくなるとは限りません.極端な例として,価格をp0で固定して考えましょう.ケインズによれば,もしYsを完全雇用に対応する(潜在)GDPとすれば,財の価格p0は高すぎ,超過供給の状態になってしまうと考えます.ですから,実際に供給され需要される量は,潜在GDPよりも低くならなければなりません.

それでは,どのくらい低くなるかを導くために使われるのが,ケインズ理論の第2の柱,いわゆるケインズ型消費関数です.すると,貯蓄と投資が等しくなるようなGDPの額 − それがすなわち総供給Ys=国民所得Yとなる水準に他ならないのですが −がただ一つ決まることになります。

ですから,ケインズは「常に超過供給が生じる」と考えているのではなく,価格機能の不備から,「完全雇用を達成するGDP水準では超過供給が生じる」と主張しているのであって,「超過供給が生じない,総供給Ys=国民所得Yとなるようなレベル(それは潜在GDPより低い額)で国民所得が決まる」と主張しているのです.ですから,超過供給が生じている時には,当然,定義から“総供給Ys=国民所得Y”とはなりません.


質問: すると,ケインズ型消費関数のcY+A(c:限界消費性向、A:基礎消費)のYは、均衡点としてのYが、いろいろな値をとった場合の関数である,と考えてもよいのでしょうか?

回答: 「均衡点としてのY」がちょっと変ですね.正確には:仮にGDPが値Yであるとき,もしYがたまたま「均衡」になっていれば,Yは消費と投資の合計になっているはず.ケインズの消費関数における仮説は,「どのようなY」でも,cY+Aが消費支出になるということです.したがって,「どのようなY」でも,残りのY − (cY+A)は定義により「貯蓄」はされるものの,(市場の不備から)これらは必ずしも投資にまわるとは限らない.言い換えると,貯蓄額がちょうど投資額とバランスする「特別なY」が均衡GDPということになります. 


質問: しかし,総需要(=支出=財・サービスを購入する)するための現金はどこから捻出されるのでしょうか?スティグリッツの本では横軸が「産出量・所得」になっていることから、常に産出=所得となるということを意味しているように思うのですが、
そうだとしますと、生産してから、まだ売れたわけではないのに、それと同じだけ
所得が分配されると考えるのですよね?これは、生産した財・サービスがそのまま現物で給料として支払われていると考えてるのでしょうか?そして、その分配された財・サービスが貨幣のような交換価値を有すると仮定して
いるのでしょうか?

回答:基本的には,総需要あるいは産出量は同時に決定されていて,支出=財・サービスを購入するための現金(あるいは交換手段として働く財)は捨象され,用意しなくてもよい,と考えています.実際,均衡では産出量=所得になるわけですから,生産物の購入に必要な「現金」は産出物を販売することで,ちょうど確保されているはずです.質問にある通り,日常生活では「先に」現金を用意していなければならないので,それとのギャップが気持ち悪いところですが,このように経済を無時間的に抽象化する以上,さけられないのではないかと思います.


金融・証券


質問 株式・社債などを扱う市場では、どのようにして価格が決められているのでしょうか。新聞で証券などのページを見ると、価格は毎日変動していて、その値動きは市場が決めている、という感じがします.しかし,株式を発行している企業は、売り手として株価を決めないのでしょうか。企業が毎日株価を決めているとは考えにくいのですが。

回答: 株や債券の価格は,基本的には社工概論実習の実験Bのようなコンピュータ上の注文のやり取りで決まっていきます.抽象的に言えば,それが「市場が価格を決めている」と言うことです.実験Bでもそうだったと思いますが,1日の取引の間でも価格はかなり上下します.

発行する企業は株価を決めません.と言うより,決められません.いったん流通し始めた株式はそれを所有したい人と売りたい人の間の需要と供給の関係で値段が決まっていきます.企業は発行時には売り手なので,そのときに自分の望む価格を要求出来ますが,それにしても買い手がそれに合意しなければ取引は成立しないので,やはり市場が決めていると考えるべきでしょう.


質問: 東京証券取引所というものは、一体何をするところなのでしょうか。よくテレビなどで取引所の様子が映し出されますが、何が行われているのかよくわかりません。

回答: 東京証券取引所の業務については,東証のホームページ ,なかでも,「証券入門」の項を見てみてください.いろいろなことがかなり詳しく書いてあります.そのほか,東京工業品取引所のぺーじの「取引ガイド」も参考になると思います.


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ゲーム理論

質問: 相手が合理的な行動をとれていないと見込んで(それもかなり確かなとき)、その上で作戦を立てるということが、実社会ではあると思うのですが、この扱いはゲーム理論ではどうなっているのでしょうか? ゲーム理論では合理的な行動を前提としているようですが、それが情報として伝 わってしまうと、それを逆手に取った行動を取るのが最善になりうると思うので すが、どうなんでしょうか。じゃんけんの手の読みあいが、堂堂巡りになるように、合理性の前提も問い詰めるとぐるぐると回って、身動きが取れなくなりそうなんですが、ゲーム理論ではどうして合理性を前提として話を進められるのでしょう? そして、合理性のなさそうな人物がいた場合、それを考慮して行う戦略は、やは りあっていいのでしょうか?

回答:これは難しくかつ興味深い問題です。「ミク戦」ではこれに関することを少しだけ最後の章に書いてあります。 ただ、人は非合理的だから何をするかわからない、では学問になりません。非合理といっても程度の問題ですよね。 上の例でいえば、非合理的な人を予想していれば、必ずしも合理的な人を前提とした戦略を採用するのは最適ではない。だから、一般に相手が「非合理」的だと前提とすると、自分の行動を変える必要があるわけで、ゲーム理論でもそのように対処します。言い換えれば、非合理的な相手を予想しているのならば,それを考慮に入れて「最適」な戦略をとるというのが、理論が対処する方法で、それがまさに「合理性のなさそうな人物がいた場合、それを考慮して行う戦略」にあたります。 興味深いのは、このあたりを先読みするならば、自分は「合理的」であっても、あえて「非合理的」であるということを相手に印象付けるような行動をとることで、相手に自分にとって有利な行動をとらせることができるかもしれない。 # 北朝鮮は必ずしも「非合理的」とはかぎらない。 # 女の子が泣くのも「非合理的」とはかぎらない などがその例だと思います。だから、「非合理的に見える」から「非合理的である」と結論はできないわけです。


質問: 「情報頑健均衡」とはなんですか?

回答: 原語は "robust equilibrium to incomplete information" です.ナッシュ均衡を定めるにはゲームの構造を決めてやる必要がありますが,そもそもゲームが現実問題の抽象化である以上,このゲームの構造は現実の完全な記述ではありえませんね.対象になっているプレーヤーが考えているゲームの構造と,第三者である分析者が考えている構造に微妙にずれがあるかもしれません.分析者が考えるゲームの構造のもとでのナッシュ均衡が,現実のプレーヤーが考えるゲームでの均衡になっていないとすると,分析の結果には信頼が持てないことになります.言い換えると,分析者の求めた均衡が当事者の考える均衡に近いということが保証されていれば,分析の結果には安心できるわけです.

上記の「ずれ」が情報構造にのみ起こるとしたら,より正確には,おたがいの相手がどれだけ戦略的に考えているかということに関して各プレーヤーがいだいている思惑の部分は分析者の想定と一致する必要はないとしたら,分析者の考えるどのナッシュ均衡が当事者の考える均衡に近いということが保証されてますか,というのが「情報頑健」の問題意識です.それがある意味で保証されているナッシュ均衡が「情報頑健均衡」です.


質問:「ミク戦」の図5.8のべイズ完全均衡に関してです。この図では能力が高い労働者が資格をとり、企業が資格をもつ労働者を能力が高いと信じ高給を払うのと、能力が低い労働者が資格をとらず、企業が資格無しの労働者を能力が低いと信じ低給を払うのが、ベイズ完全均衡となっています。企業は,「資格を持った労働者は能力が高い、資格のない労働者は能力が低い」という信念を持っています。この際労働者は何を判断基準にして、資格なし、資格取得を選んでいるのでしょか?労働者も企業と同様に「企業は資格を持っている労働者に対し高い給料を払い、資格を持ってない労働者には低い賃金を払う」という信念を持っているのでしょうか?

回答:プレーヤーの判断基準は自分の「信念」です.「信念」と「予想する相手の行動」は,本来違うものですが,「自分の予想する他のプレーヤーの行動と矛盾しないこと」が要請されているため,「予想する相手の行動」とほぼ同じことになるケースが多くあります.質問にある労働者の場合もそうで,おっしゃるように企業の行動に対する信念をもっていると解釈した方が,すっきりするかもしれません.


質問: 「ミク戦」 で考えられているベイズ完全均衡ですが,なぜ「信念」を考えるのかがわかりません.図5.4のチキンゲームを見てみますと,9行目から10行目に掛けて、第一プレーヤーが家事をして、第二プレーヤーが第一プレーヤーが「家事やる」と信じて「やらない」のはベイズ完全均衡です。と書いていますが、第一プレーヤーも第二プレーヤーが「やらない」という戦略をとると信じているからこそ、「家事やる」という戦略をとっているように思えます。なぜなら第一プレーヤーは第二プレーヤーが「やらない」という戦略をとるということは分らないと考えるからです。つまり、相手の戦略を仮定して行動してれば十分で,信念を考えるのは余計なことのように思われます.


回答: 一般に,ナッシュ均衡を考えるためには,戦略だけを考えればことには問題が生じません.図5.4にかんしてはおっしゃる通り「信念」など考えず,戦略に反応していると考えてもかまいません.言い換えれば,図5.4は戦略形表現ですべて話しが済んでいるゲームなのです.しかし,練習問題5.4のようなゲームだと「妙な」ナッシュ均衡が生じる問題があります.そこで妙なナッシュ均衡を排除し,意味のある分析をするために「信念」と言う概念導入したのがベイズ完全均衡です.


質問:ナッシュ均衡についてです。この意味はわかるのですが、どうしてナッシュ均
衡に到るのか、その仮定が明確にわかりません。勿論、同時に動くことを前提としているので、確率として起こることは理解出来るのですが、必ずしもナッシュ均衡に到るわけではないと思うのですが、如何でしょうか。もし、100%ナッシュ均衡に到達しないのであれば、ナッシュ均衡というものを定義する必要はなぜあるのでしょうか(確率的にナッシュ均衡にもなる可能性があるだけなら、均衡しないペイオフも同様のに確率的に発生する可能性があると思います)。


回答:『均衡』はバランスがとれていると言う意味です.ナッシュ均衡は,戦略的思考のバランスがとれているような点です.そのような点に『到達』するかどうか,ということは,またゲームが対象としている現実の社会経済現象に沿って議論する必要があるでしょう.バランスがとれている,ことすなわち最終的な到達点,とはならないからです.ただし,『均衡』していないような点が,安定的に選ばれることは考えづらいので,ナッシュ均衡になっていないような戦略の組は,分析の結果・予想として用いることは難しいと思われます.ですから,ナッシュ均衡は少なくとも議論の出発点として重要なのです.


質問:ゲーム理論を考える場合、常に、プレイヤーは、高いペイオフを求めると前提
を置けるものなのでしょうか?もし、1回だけの勝負とか、交互ゲームでもお互い1回のみであれば、自分の利益を悪くするという選択も(引換えに相手に打撃を与えられるなどが可能なら)起こりうる筈です。また、例えば、業界第2位のメーカーは、ペイオフを高めたいと同時に、トップメーカーとのペイオフの差を縮めることにも関心があり、ペイオフが高いが差が開いているよりも、ペイオフは低いが差が小さい方を選ぶということもあるのではないかと思います。こういう考え方は、経済学的ではないのでしょうか?

回答:とても経済学的だと思います.ただ,少し誤解があるようなのは,何をペイオフと呼ぶか,ということです.ゲームは現実をあくまで抽象的に捉えたものですから,『同時手番で一度で終わる』といっても,本当に物理的にすべてが一時点で決着していると考えているのでは必ずしもありません.相手の手を見ながら自分の態度を決められるゲームも,戦略形で表現できることを思い出してください.(ミク戦3章).業界第2位のメーカーが考える自社のペイオフは,将来にわたってえられると予想される利益の額となっていると考えてはいかがでしょうか.


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大学受験、大学院受験、研究生志望など


質問: 母が数学受験をやめろと言い始めました.理由は,学校の先生が 文系の数学受験は落ちやすいと言ったからだそうです.私は,数学は好きだし,経済学を勉強して見たいと思っているので,数学を受験科目に選びたいと思っているのですが.だいたい,失敗しやすいといっても,今から準備の段階なのだから,私が失敗するかどうかもわからないのに,自分の考え押し付けられるのが不愉快です.この変,どうお考えですか?

回答: 現場で経済学を教えているものの立場からいいますと,いわゆる文系数学が使いこなせるかどうかは,大学での勉強が充実したものになるかどうかの鍵を握る重要な問題です.もし,大学に入ることだけが目的ならば,進路指導の先生とお母様の意見もわからないではないですが,学生の将来を考え,大学での勉強,さらには実社会でのその学生本人の発展を考える人ならば、数学を学びそれで受験をしようとしている学生の意気をそぐようなことは,言うべきではないと思います.

数学を勉強することは,論理的に考えることのトレーニングになります.仮に,数学で受験するつもりで用意して,最後の最後で数学で受験しなかったとしても,数学でそのようなトレーニングをしたことは,かならずどこかに効果として現れます.不思議なことですけどね.

受験をしなくても勉強できるともいえますが,受験という目標があってこそ,地道な反復練習もできるわけです.バレエも発表会という目標があるとないとでは大違いですよね.

私は,高校2年生の段階で,受験科目を絞って勉強することには反対です.現在「進路指導」の名前のもとに,早いところでは高校1年生の後半で,受験科目を絞らせて勉強させているようですが,これには賛成できません.現在の高校で「ゆとりのある」カリキュラムが実施されているのは,学生の視野を早いうちから狭めたくない,学生にはもっといろいろなことを考えて欲しい,というのが大きな理由だったはずです.

私の考えでは,少なくとも高校3年生の夏休みまでは,自分の希望する大学の受験科目に1つや2つ余計に勉強する方がよいと思います.どうして,自分の可能性の目を自ら摘んでしまうのでしょうか.

 


質問:大学院の入学試験に向けて勉強をしている最中ですが,英語に不安があります.どのような文献を読んだらよいのか分かりません.

回答:英語に関して言えば,いろいろな意見があると思います.経済学関係の英語の文献が読めないとすると,大学入試レベルの基礎力が欠けている可能性がありますので,大学入試の問題集をするのがよいと思います.市販の物で,答えが充実したものが多いので.


質問: 大学院でミクロ経済学・産業組織論・ゲーム論を学びたいのですが,読んでおくべき本は何ですか?

回答:語学数学の基礎力を別にすれば,自分の趣味にまかせていろいろ読んでみたらよいと思います.ゲーム論関係で私のお勧めする本はDixit-Nalebuffの本と,あとはもちろん「ミクロ経済学:戦略的アプローチ」ですね.


質問: よく、大学院で経済学をやるなら高度な数学の力が必要だといわれますが、それはどのくらいのレベルが必要なのでしょうか。ちなみに、私は大学院でゲーム理論、マクロ経済学、金融論を専攻しようと考えております。

解答: 微積分、線形代数、確率統計の基礎的なところ。昔で言う高校の数学3レベル。多変数関数の制約付き最大化問題の解き方。こんなところです。ただし公式の丸暗記はあまり役に立ちません。後は必要に応じて学んでいけばいいでしょう。 勉強する本は何でもよいので,あなたの大学で使っている物を完全にマスターすれば足りるでしょう.まめに練習問題をやってください.


質問: 私はミクロ・マクロで大学院を受験するつもりですが、やはり大学院レベルの教科書を理解出来るようにする必要があるのでしょうか。

 

解答: これは一概に言えません。私自身は、大学院の入試では大学の中級ミクロ・マクロと上の解答にある数学をテストすれば十分と考えています。が、出題者と学校の方針によるでしょう。ミクロで言えば武隈慎一「ミクロ経済学」、石井・西條・塩沢「入門ミクロ」あたりが(章によって差がありますが)、両方とも対応する演習本が出ていますので、受験勉強用にはよいでしょう。後者は大学院でも十分使用可能なテキストです。


質問: 大学院入試対策には、独学ではなく大学のゼミで勉強したほうが良いのでしょうか。

解答: これも難しい問題です。入試対策で言えばゼミに入ってもしかたがないと思います。もしあなたがほかに人がいないと勉強できないタイプであれば、そもそも大学院に行くこと自体をお勧めしません。


質問: 大学院試験の面接に対し極度に自信がありません。面接、調査書などはどの程度合否に関わってくるのでしょうか?

 

回答: これは大学によって方針に違いがあると思いますが、私たちはかなり重視します。普段から人前で話す訓練をするのが良いのではないでしょうか。将来、教壇に立つときに役に立ちます。アドバイスになるかどうか分かりませんが、試験する側から言うと、知識の量よりも、どれだけ論理的に考えられるかを見たいので、知らなければ知らないと答えてもらうほうが助かります。


質問: 梶井先生に研究生として受け入れてもらうには、どのような手続きが必要でしょうか

回答: 研究生の受け入れは一切していません。参考として私のポリシーを書いておきました(英文)


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職業としての大学教員

 

質問: 自分は非常に安定した職についていますが、それを辞めて研究の道へ進みたいと考えています.しかし,「 大学教員が割に合わない仕事だ」とおっしゃられる点が非常に不安です。私は大学教員になることが大目標ですが、一体、どう割に合わないのでしょうか。大学教員という仕事はすばらしい仕事に感じられますが。

回答:どのようなコンテクストで書いたのか覚えていませんが…

1.現在の大学教員という仕事は,少なくとも日本の現状を見ますと,既得権としては「おいしいしごと」ではないかと思います.ほとんどの大学で、学術教育と知識の評価や勤務評定もされることなしに,国民の平均給与以上の所得を得ているわけですから.しかし,そのような職場は自分の人生をかけるに値するのでしょうか.私にはよくわかりません.

2.トップクラスの大学ではそんなことはありません(たぶん).知的刺激に関しても,理想的ではないにしても,まったく飽きのくるようなものではありません.ただし,経済学にかぎって言えば,そのような大学は非常に数が少ないようにおもわれます.今、研究教育のプロを目指している学生で,そのような場所に就職できるのは,ほんの一握りです.

3.さらに言えば,今後大学教員ストックへの需要は確実に減少します.日本の雇用慣行からすると,ストックの調整は自然な減耗でしかなされませんので,1のような環境もなかなか得がたい物となっていくでしょう.

4.博士号をとるためには多大な投資(金銭+時間)を要します.投資の効率性を素直に金銭収益とリスクで考えれば,それほどよい投資先とは思えません.おそらく「割に合わない」とはこの部分をさしたのだと思います。ただし通常この仕事を目指す人は,金銭収益以外の効用を高く評価しているわけで(私を含め),その意味では投資の収益は十分にあるのかもしれません.

どちらにしても,相当な覚悟が必要です.


質問:将来大学で経済学やゲーム理論を教えたいと思い, 大学院進学を考えています.大学教員を目指す上で、今から身につけておくべきことがありましたら, 教えてください.

回答:需給バランスと今後の大学間の競争, またこれまでに蓄積されたの負の遺産を考えれば, これからは職業としての「大学の教員」はしだいに割のあわないものになると予想されますので, 私はあまりお勧めしません. それでも学問を究めたい,最先端の学問を学びたいという欲求が抑えられない人は 「大学の教員」をめざして大学院にすすんでください. 今から身につけておくべきことを強いてあげれば,自分の考えをとにかく書き記していく習慣ではないでしょうか.


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大学での生活・勉強

質問: 社会経済を学ぶために、1・2年生の間にどのような学習をしておくことが重要だと思いますか(分野・程度・ETC)?

 

回答: 本・新聞・雑誌を読むこと。バイトをすること。数学を勉強すること。オフィスアワーに教官を訪ねること。


 

質問: 今年入学したばかりの1年生ですが、社会経済にはいってなにをやるのかいまいちつかめません。アドバイスをお願いします。

 

回答: これは難問だ。正直のところ私にも良く分かりません。大学は専門化されているので、おなじ社経といっても、私には皆目見当のつかない研究をされている方も多いのです。また、専攻が別でも、私の分野(経済理論)に近いことをされている方も多い。この件に関しては、1年間を通してもう少しいろいろな人の授業を聞いていれば、分かってくるのではないでしょうか。


留学

質問:一橋大大学院とハーバードの大学院で勉強をされた経験を先生はお持ちなわけですが、 日米の大学院で何らかの相違は意識されたことはありますか。 あるとすれば、それはどのような相違なのでしょうか。

回答:誤解を恐れず大雑把に言うならば, 日本は「師匠」が「弟子」を育てる伝統工芸型で,アメリカは教育システムとして体系的に教える (あるいは教える場を提供する)大量生産型だと言えます。私にはアメリカ型が合っていました. 誰にでも合うというわけではないと思います.

 

質問: 僕は将来、MBAを取りたいと思っています。TOEFLとGMATを勉強をするのはもちろんですが、 そのほかに何かやっておいたほうが良いことはありますか。

回答: 新聞を読むこと。CNNやBBCをみること。


梶井個人について


質問:研究テーマは何ですか?

回答:リスク,不確実性と情報が経済現象にどうかかわっているのか,がテーマです.


質問: なぜ経済を専攻しましたか?

回答: 大学で経済学部を志望した理由は、モノを作っていない人がこれだけ多いのに、なぜわれわれが生きていけるのかということが、疑問だったから。


質問: リサーチのみを重視するなら最前線の活動が行われているアメリカの大学に就職することが望ましいよ うですが、先生はアメリカと日本での研究生活を比べて情報が遅れる、乏しいと感じられますか? 少し前に先生からアメリカで教えると学生の苦情処理が大変だということを伺いましたが、自分の研究以外に割かれる時間は両者で違いがありますか?

回答: 時間についてはあまり差はないと思います. わたしの場合、学生の苦情処理と講義の準備などで相当時間と体力を費やしていたので, むしろ今の方が,(入試関係の妙な雑務を考慮しても)自分の研究につかえる時間は長いと思います. (授業負担からくる肉体的精神的苦痛は,ペンの時に比べると半分以下)。

問題は,研究に対するサポートの差ですね。研究環境をよくしようという共通の意識があります. 私がかつて所属していた筑波大学の社会工学系はこの点では日本では優れているらしいですが, ペンシルバニアとは比較になりません。 ペン大にいるときは,何か生産しよう,という気持ちが,自分で意識しなくてもむくむくと育ちました (若かったと言うこともあるが).

また,情報に関しては電子メールとWWWでかなりキャッチアップできます.